INTERVIEW

〜60年間に亘る、創作者としての人生を振り返って〜
吉田喜重監督インタヴュー

聞き手:上野昻志

2020年12月

1. 最初の映画の記憶


上野:吉田監督が、ご自身にとって、最初の映画の記憶として残っているのは、どんなものでしょうか?


吉田:私が見た映画の最初の記憶は、もちろん戦前のことですが、女中さんに連れられて見た映画です。おそらく女中さんの好きなメロドラマ、おそらく松竹製作の映画だったのでしょう。帰ってから私は祖母にその話をしたのですが、もちろん女中さんは祖母に叱られたことは言うまでもありません。映画は教育上良くないと思われていた時代だったからです。こうした環境は、私の母が私を生んで間もなく、肺結核でなくなっているからです。こうした事情は、最近私自身が「文芸春秋」より上梓した「贖罪、ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」のなかに詳細に描かれています。


その後、太平洋戦争が始まってからは、軍国主義を鼓舞する映画を見せられました。それというのも小学校の講堂で、全校生徒は巡回上映される映画を見る、いや見せられたのです。もっとも戦争が始まる直前に、私は外国映画、それもアメリカ映画を、父と父が再婚した二度目の母に連れられて、神戸で見たことがあります。それはジョン・フォード監督、ジョン・ウェン主演の『駅馬車』だった。この映画のクライマックスの場面で、ジョン・ウェンが暴走する駅馬車を巧みに操って制止するシーンがあるのですが、映画を見終わった後、母から「あれはスタント・マンという危険な演技ができる人が演じているのよ」と教えられたことを鮮明に覚えています。映画という表現は現実の再現ではなく、すべてがフィクション、虚構であることを、私はおのずから知ったともいえるのです。

2. 終戦直前に見た黒澤作品と木下作品


上野:その後、青少年期には、映画はよくご覧になっていたのでしょうか?そのなかで、印象に残った作品には、どんなものがおありですか?


吉田:戦後になって東京に出てきたのですが、学校に通学する駅、渋谷の繁華街には闇市が設けられ、騒然としていました。そして交差点の交通整理をしているのが、アメリカ駐留軍の憲兵、厳しく笛を吹き、何か場違いなものを見ているような思いをしたことをよく覚えています。もちろん映画館も再開していましたが、見たことはありません。むしろそのころ見たのはアメリカ映画を上映している映画館でした。ジーン・ケリー主演の『雨に歌えば』、そして『パリのアメリカ人』といったミュージカル映画だった。こうした映画を好んでみたのは、それは現実を反映しているのではなく、架空の時間、空間を感じさせるからだった。おそらく過酷な現実を忘れるために、私はこうしたミュージカル映画を好んでみる、いわば逃避していたのです。


従って当時の日本の現実を反映しているとして、高く評価されていた黒澤明の映画を見ていない。もっとも黒澤明監督との最初の出会いは、不運でした。終戦直前に偶然に見た黒澤監督の処女作『姿三四郎』は、まだ幼かった私にも、男は強くあらねばならないという、いわば男性優位の映画でした。しかもそれは国策映画として情報局の認可された第一号だったのです。そして同時に情報局によって認可された作品として、木下恵介監督の『花咲く港』が製作、公開されたのです。この作品は戦時中の映画とは思えない、のどかで平和な映画だった。もっともこの木下作品は、私が木下監督の助監督時代に、松竹が回顧上映として公開、その折りに初めて見たのです。その公開直前に、木下さんは私に試写を見るように言われ、見終わった後、その感想を聞かれたのです。私は「日の丸の旗が翻っているショットが長く感じました」とお話しすると、「それじゃ、そのショットを短くしてください」といわれたのですが、私が「そんなことに気付く観客は、誰もいないでしょうから、このまま上映すべきです」と申し上げたのが、いま懐かしく思い出されます。