CRITIQUE

ろくでなし

『ろくでなし』
鮮烈なデビュー作!
上野昻志

新人監督の優れた作品を、鮮烈なデビュー作と評するのは、もはや手垢にまみれているだろうが、こと、吉田監督の『ろくでなし』に関しては、言葉の塵を払ったうえで、鮮烈なデビュー作、と言いたい。それは、公開から60年の時を経てもなお、鋭く輝いているのだ。


冒頭の、木下忠司のジャズ風の音楽を背景に、緩やかに走る車のウインドウ越しに、銀行に金を預けに行く社長秘書を捉えたショットから、ただならぬ気配が漂う。


車中にいるのは、大学生の4人組だが、彼らの関係は一様ではない。外車を運転するのは、件の秘書が勤める会社の社長の息子・秋山俊夫(川津祐介)で、秘書を車に乗せて、金を奪うふりをして彼女をビビらせるという“遊び”を主導する。対して、後部座席にいる北島淳(津川雅彦)と森下(山下洵一郎)は、貧乏学生だ。もう一人、助手席で、この遊びに意味ありげなことを言って、俊夫から、評論家面するなと一蹴される男がいるが、彼はその後、アメリカに留学すると姿を消す。


重要なのは、金持ちの俊夫と、貧乏学生の淳や森下との関係である。将来が約束されていて、それだけに暇と退屈を持て余している俊夫の金に、淳や森下は依存しているのである。ただ、そのことに忸怩たる想いを抱いている淳と、平然とたかる森下との違いは歴然とある。物語が進むにつれ、俊夫と淳と森下の違いが露わになっていくのだが、これは、同時期の「太陽族映画」などと呼ばれた青春映画において、きわめて異質な、と同時に重要な特徴である。石原慎太郎由来の「湘南族」などは、ブルジョアないし、それに準ずる有閑階級の若者が中心だから、このような階級的な差、それを物語のベクトルにするような視点は皆無である。その点でも、吉田喜重の脚本は、一頭地を抜けていたというべきだろう。

ろくでなし

俊夫の父・秋山謙作(三島雅夫)が、仕事でライバルを蹴落とすことに躊躇しない男として描かれるのも、そのような物語の構造に奥行きをもたらす。


物語の主人公は、件の秘書・牧野郁子(高千穂ひづる)を強引に車に乗せようとして、彼女から、「ろくでなし!」と浴びせられる淳である。俊夫の金で酒を飲んだり、遊んだりしながら、そのことに忸怩たる想いを抱き、苛立つ彼は、絶えず俊夫の遊びの圏域から出ようとする。


それが端的に示されるのが、俊夫が、あの高慢ちきな女(郁子)の鼻をへし折ってやる、という狙いで計画したパーティでの行動である。俊夫は、まわりを囲んだ女たちに、これから来る郁子について、本場のフランスでシャンソンを学んだ女性だと話す。女たちは、フランス帰りなんて素敵、ぜひ、歌って頂きましょうと声を合わせる。そこに、何も知らない郁子がやってくる。彼女に期待の声が集まる。ピアノの伴奏も始まる。と、その瞬間、淳が会場の灯りを消し、暗闇の中、郁子を連れ出す。車中で、わたしを助けてくれたのね、という彼女に、淳は素っ気なく、そんなんじゃない、と返す。この食い違うやりとり、郁子からすれば、素直じゃない淳の言動が、以後、二人の関係の基調となる。


夏、葉山の別荘にいる俊夫のもとに、森下と一緒に遊びに行った淳は、金を届けに来た郁子と一緒に帰京する。車中で、郁子の会社でアルバイトをすることに同意した淳は、空腹を訴え、同居している兄夫婦が不在の郁子の家に招かれる。そこで、彼はなかば強引に郁子を抱くのだが、これに続くシーンは、微妙なニュアンスを孕む。


というのも、タオルケットに包まれた郁子の手を握った淳は、彼女の顔を撫で、愛おしそうに接吻するからだ。あたかも愛した女にするように。だが、郁子が、どこか満足げな笑みを見せると、淳は、なぜ笑うと言って身を引くのだ。微妙なのは、この瞬間、淳のなかに、愛ともいうべき感情が芽生えた可能性が感じられるからだ。郁子の微笑みも、それに応えたものだろう。しかし、それを、笑いと捉えた瞬間、可能性としての愛は雲散し、彼は家を出て行くのだ。その家は、白いペンキ塗りの木柵で囲まれているが、隣もその隣も、同じような柵に囲まれた平屋が並び、当時の小市民的な幸せを暗示して、卓抜な美術設計である。淳は、それに背を向けるのだ。


以後、郁子は、アルバイトをする淳を誘って、一緒に帰ろうとするのだが、淳は、それをことごとく外す。それは、誇り高い郁子が、普通の女になったようにも見え、それを俊夫に揶揄されたりもするのだが、一人の女を、そこに留め置かないのが吉田喜重なのだ。


淳のアパートを訪れた郁子は、あれは遊びだったといい、あんたとは関係ない、と言い放つ淳に、あんたは、自分じゃ、ろくでなしと思ってるけど、本当は気が弱いのよ、自分の気持を誤魔化して強がってるだけ、そんなことで一笑生きていけると思ってるの、とはねかえす。それに対して、俊夫譲りの悪罵を投げる淳に背を向けて彼女は出て行くが、注目すべきは、道を歩く郁子の顔であり、そのあとの兄夫婦の家で、寝ている彼女の目元をクローズアップしたショットである。その強い表情に、吉田喜重の女性に対する見方が現れており、それは、以後の、女性を中心にした作品において、より明確な表現をとっていくであろう。


金持ちの俊夫と群れながら、そこに安住できない淳は、こうして、郁子という女性の眼差しを通して、その柔らかい部分を突かれる。だが、他人の言葉に反発して逆の行動に出るしか、自己を保ちえない彼は、金持ちはいつでも高見の見物をしているという言葉を敏夫に投げつけ、破滅への道を進んでいくのである。