CRITIQUE

とどかずの町で

『とどかずの町で』
大西映画について私が知っている二、三の事柄
荻野洋一

北の海ぎわに立ち尽くすコート姿の男の不動姿勢。足元にはスーツケース。白黒スタンダードサイズに充満する不穏さを感知する。荒涼たる波の音、砂を巻き上げた風の音。生気らしきものを感じさせるものといえば、カモメたちの盛んな鳴き声だけである。


鬱々とした表情から逃れられなくなった男は、無人の一軒家に到着する。趣味の良い、瀟洒な邸宅である。どうやらここは男の実家のようだ。しばしの逡巡ののち、男は電話をかける。別れたばかりの恋人に。会話内容から、男が仕事を辞め、これまでの生活を放りだし、故郷の北海道函館に逃げ帰ったことが解る。相手の女声は冷めきった声で、男の近未来を予言する。


「いまちょうどあなたのことを考えていたのよ。しばらくあなたのことが解らなかったんだけど、さっき解ったことがあるの。あなた、あした女の人に会うのよ。オレンジ色のコートを着ているの、その人。可愛いのよ。10年前の私に似ているの。東京の人」


ひどく具体的なディテールまで予言するその女声を苦笑まじりに聴きつづけるしかないこの映画の観客は、それにしては男が失職したことや東京を棄てたことに対しては、女声はほとんど関知しない。「あした女の人に会う」、そして「オレンジ色のコートを着ている」という具体だけに焦点が当てられており、さらにその女の人は10年前の自分にそっくりだと言うのである。電話の女性の目の前に広がった予兆イメージはつまるところ、10年前にあんたが私とした恋愛の再生産、コピーにすぎないのだと告げるために像を結んだイメージとなる。あんたは10年前の愛に囚われたままであり、自由になることはないのだと。


ジャン・コクトー監督『オルフェ』の冥界からラジオ電波を伝って届けられる奇妙な詩の言葉のように聞き手に深く沈潜していく、電話越しの不透明な女声は、不気味な予感を呼び起こし、永遠に逃れられない関係構築の不可能性をも言い当てているようにも聞こえてくる。この電話の向こう側の女声とは、単に「別れた元恋人」という物語背景上の人称性が不透明に敷衍され、主人公のこれまでの半生を押し潰してきた関係構築の不可能性を無意識の破壊衝動によって響かせた、内なる傷痕の擦れる音なのではないか。


予言に従うまま、男は、函館の夜の町へ出かけて行く。通りでは、1年前に死んだ父親にそっくりな流しのアコーディオン弾き(高田渡)が目の前を静謐に横切っていく。現実そのものに見える函館のごく通俗的な路地の風景が、不意になにか得体のしれぬ冥界の内奥を裏返したように見えてくる。これは、主人公の鬱々とした心性のせいばかりでない。白黒スタンダードサイズの16ミリフィルムがもたらす「幻想的」というほかは表現しようのない独特の質感によって、現実の非現実化がまざまざと起きてしまっているということだ。

とどかずの町で

かつて馴染みだったバーに入った男は、マスターらしきロングヘアの中年男(元「はちみつぱい」の渡辺勝)と「こっちに戻ってきたのか」「ええ、きのう」といった最小限のあいさつを交わしたあと、女声の予言どおり「可愛い人」(逢野亜紀子)を紹介される。「前に手伝ってくれていたあの子が辞めちゃってね」。翌日の晩もバーに行った男は、一人で店番をしていたユミコという名の女性とじっくりと話をする。話というよりも、一方的にユミコが自分のこれまでの歩みを語り、また男の境遇が悲しみに満ちていたことを言い当てるのである。ここにも予言めいた言葉で男を絡めとっていく声がある。そしてその絡めとられは、波長の合う時間の流れとなって、男をただただ居心地良く水底に沈めていく。


監督の大西功一がみずから苦虫潰した表情をほとんど崩さないまま、主人公のコウイチを演じている。この2時間を見て、男性作家のナルシスティックな心情吐露にはつき合いきれないと思うのか。それとも人間の悲しみ、沈澱というものが、乾いた砂のように澄み切ったものとして、白黒スタンダードサイズの画面を清涼化していると思うのか。筆者は当初、その両方を感じながら画面を見つめていた。しかし、渡辺勝の消え入りそうな、ぽつりぽつりとだけ鳴らされるピアノソロの、少なくも力強い音に導かれながら、ナルシシズムがまったく気にならない地点まで押し流されていった。


1990年代中葉のある日。映画『とどかずの町で』をとあるイベントで見て感銘を受けた筆者は、同作の打ち上げに喚ばれた。渋谷の公園通りにたくさんの人々が集まり、オリジナルスコアも担当した(マスター役の)渡辺勝をはじめ、多くの関係者から大西功一監督がとても愛でられる光景を目の当たりにした。同世代の筆者からすると、人は他人からこんなにも好意をもって接せられることがあるのかと、素朴な感動を受けた。


この大西功一という人物が好感を抱かせる独特の空気を放っていることは間違いない。少しのあいだ、大西監督との個人的関係の話題となることをどうかお許しいただきたい。筆者の推薦も少しは役に立ったらしく、『とどかずの町で』はシネヴィヴァン六本木でのレイトショー公開が実現した。1980〜90年代のシネヴィヴァン六本木は、当時のシネフィル環境の中心的なシアターであったから(六本木ヒルズ建設工事のため、取り壊された)、作品にとって非常に栄誉となった。これと相前後して、大西監督は筆者を自宅に招いて、もてなしてくれた。彼は料理が得意らしく、どれもとてもおいしかった。恵比寿と代官山の中間ぐらいの、古いがなかなか広いマンションは、『とどかずの町で』で登場する函館の邸宅の趣味の良さと相通じるものを感じさせた。途中で、同居しているという綺麗な妹さんも帰宅し、3人だけのささやかで、静かな、とてもリラックスした祝宴は、時間が止まったように、ワインの瓶をカラにしていくに任せて夜が更けていった。


『とどかずの町で』のレイトショーという目標が一段落したあと、筆者と大西監督の交流は疎遠となった。ごく稀にメール、電話。彼は筆者の知るかぎり『とどかずの町で』以来、劇映画を作っておらず、音楽関連の映像作品中心の活動をしている。バリ島の音楽/映像コラボレーション作品『HOTEL IBAH』(2001)のDVDを送ってくれたことがある。『HOTEL IBAH』のプロデューサー久保田真琴との関係性のなかから10年後に生まれた沖縄県宮古島のドキュメンタリー『スケッチ・オブ・ミャーク』(2011)が、ロカルノ国際映画祭の批評家週間でグランプリに次ぐ審査員スペシャルメンションを受賞したことは広く知られているだろう。津軽三味線奏者 初代高橋竹山を軸に津軽を写した新作ドキュメンタリー『津軽のカマリ』(2018)は劇場公開を終え、全国巡回上映の最中だったが、巡回活動はコロナ禍によって中断している。


『とどかずの町で』の話に戻って拙論を終えたい。バーでの2度目の夜、打ち解けた一組の男女。翌朝、居間のソファで目を覚ましたコウイチの目の前には、ユミコの趣味の良いコートがハンガーに吊されている。ユミコは寝室を使っているのだろう。ハンガーに吊されたそれが、ほんとうに電話の向こう側の女声が予言した「オレンジ色のコート」なのかどうかは、白黒スタンダードサイズの画面を見つめる私たち観客には判然としない。この判然としない「オレンジ色」こそが、この映画がまさぐろうとした、生の境目の色ではなかったか。いや、色であるとさえ判別しがたい、砂粒か粒子のあつまりのようなものとして、永遠と刹那の一瞬をぐるりと往還してやまぬ愛の幻視として、不意に起こる停電の暗闇に浮かび上がるカンテラの、ずっと見つめていたくなる灯火と、ヒスノイズのように白っぽい燃焼音と等価のものとして、判然としない「オレンジ色」は、ある。なにも保証しない確かな不確かさ。その確かな不確かさに私たち観客は画面と共に絡めとられ、押し流されていく。悠揚として。

荻野洋一(おぎの よういち)

番組等映像演出/映画評論家。「カイエ・デュ・シネマ」日本版の創刊時から休刊まで毎号にわたり深く関わり、数多くの批評を寄稿した。現在は「キネマ旬報」「リアルサウンド」「NOBODY」「現代ビジネス」等に映画評を執筆。