CRITIQUE

酔っぱらい天国

『酔っぱらい天国』
——奈落、夜ごとの「死」
紙屋牧子

白けた相貌の飲み屋街の路地を、サラリーマン風の青年が「ぶらり」と太書きされた提灯を手に、路地にそぐわぬ派手な制服姿の男を付き従えて歩いてゆく。続くショットで、ステテコ姿の初老の男が観音扉の窓から顔をのぞかせる。彼はこの家に住む渥美耕三(笠智衆)で物語の主人公、青年の方は彼の一人息子の史郎(石濱朗)である。窓枠の中で身をかがめこちら側を眺める耕三の視線の先では、史郎が上着を脱いで制服姿の男に渡し、土手から下方へのびた石階段を駆け降りる。史郎のワイシャツの袖は肩口からとれかけており、いかにも酒で羽目を外し過ぎた翌朝の光景である。大酒飲みの息子をむしろ誇りに感じている風情の耕三はその夜、飲み仲間の小池(三井弘次)とはしご酒で泥酔した挙げ句に勾留される。明け方に署内で酔いが覚めた耕三の昨夜の乱行ぶりは担当官によって録音されており、耕三は記憶のうえでは身に覚えのないわめき声、所かまわぬ小便の音を、史郎と共に身を縮めて聞かされる羽目になる。署を後にした父子はなじみの居酒屋「ぶらり」で懲りることなく迎え酒を酌み交わす。


酒豪の父子の武勇伝から始まる本作は、通称「酔っぱらい防止法」の公布(1961年6月1日)前後に撮られ、海外にくらべ飲酒による犯罪に甘いことを「酔っぱらい天国」と揶揄されていた日本の社会状況を批判するために企画された作品であるようだ。耕三と史郎の逸話は飲酒を通した親子愛をむしろ強調しているようにも思えるし、そのほかの「愛すべき」酔っぱらいたち、例えば、素面では兎のように大人しいのに酔うと見事な千鳥足になる時計修繕屋の長谷川(伴淳三郎)は、路面電車の線路の上で「ひき殺せ!」と大の字になり、あるいは脚線美の水商売風の女(吉村真理)は巡査の制帽を奪って自分の頭にのせ「世が世ならお姫さまだぞ!」と威張ってBAR「BEN HUR」の螺旋階段を舞台にストリップに及ぼうとする。このように「笑い」「スペクタクル」の対象としての酔っぱらいの「典型」が、映画の前半で喜劇的に点描される。


しかし、その空気は後半で一変する。史郎が「BEN HUR」で酔っぱらったプロ野球選手の片岡(津川雅彦)が振ったバットで頭に致命傷を負い、恋人で看護師の規子(倍賞千恵子)が見守る中あっけなく死んでしまうのである。精進落としの酒でしたたかに酔った耕三の眼前には、生前と変わらぬ姿で史郎が突如として出現し、二人は差しつ差されつの束の間を過ごす。だが、史郎はいつの間にか消え、ようやく彼の死を深く悟った耕三は激しく身を震わせ嗚咽する。耕三の耳には、史郎が愛したカナリアの美しいさえずりが、もはや彼の絶望を嘲笑するものとしてしか聞こない。翌朝、耕三によって破壊された鳥籠の前にカナリアの死骸が横たわり、そのイメージは台所の床で酔い潰れ横たわる耕三の姿に重ね合わされる。目が覚めた耕三は壊れた鳥籠を家の真ん前のゴミ捨て場に捨てるが、握りしめたままだったカナリアの死骸に気付き、そびえるコンクリートの白壁に叩きつける。しかし、どうしたことか、死んだはずのカナリアのさえずりが鳴り響き始め、耕三は壁へと踵を返すが、そこにはさきほどカナリアを叩き付けた痕跡としての羽毛がわずかに残されているだけである。耕三は幻聴に突き動かされるかのように白昼夢のような飲み屋街をさまよい、やがて史郎を死に至らせる場となった「BEN HUR」へ辿り着き、ネオンの消えた店の螺旋階段の途中、史郎が倒れた地点で我に返る。

酔っぱらい天国

ここで、耕三が常に上昇を試みてはそれを阻まれる存在であることが露わになるだろう。それは冒頭から示されていた。彼の家は土手からのびる石階段を降りた先にあり、つまり低地にある家の周りはコンクリートの白壁がそびえ、窓からの光景に空が写し出されることは一度もない。「ぶらり」の女将(桜むつ子)の「史郎が危篤」との報せに酔いも覚めた耕三が入院先へ向かうとき、ひとりが通れば一杯の狭く不自然に傾斜のきつい石階段や、寒々としたコンクリートの暗いスロープを彼が駆け上がっていく姿も、彼の「上昇」というアクションとその先にある災いのイメージが強調されているように思われる。あるいはまた、史郎の子供を身籠もった(実際は結婚を強行するための史郎の嘘だったが)規子との同居に希望を見いだした耕三が、彼女の住む「県人寮」の階段を意気揚々と駆け上がるシーン。寮の窓から見える風景は、耕三の家とは反対に高台にあることを示しており、寮の壁にはネオンの「SUN」(=光)という文字があたかも彼の「希望」の象徴として点滅している。二度目に耕三が寮を訪れたとき、規子は史郎を死に追いやった相手である片岡とベッドを共にしている。狼狽した耕三は寮の階段を逃げるように駆け下りる。壁の「SUN」の文字は消えている。


恨むべき相手である片岡とあっけなく情を交わし、そしてそれをわざと耕三に見せつけるという規子の不可思議ともいえる行動は、彼女が耕三の「上昇」を阻むために存在していることを示してもいるだろう。この一件の後、あることを告げに耕三の元へ訪れた規子が、「売女!」「パン助!」と罵る耕三のあまりの剣幕に後ずさりしていく背後にはあのコンクリートの白壁があり、耕三は、さながら白壁に叩きつけられたカナリアの如き規子の首に手をかける。だが彼女はカナリアではない。怯えて泣く規子に耕三は攻撃の手を弱め、規子は「忘れてください」と彼の元を立ち去り、耕三の「希望」はもはや手の届かぬ存在となる。なお、規子が見守る中で史郎がベッドから転落し、それが生前の彼の最後の姿であったことも、規子が耕三の「上昇」を阻むイメージであることと無関係ではないだろう。


以前にも増して酒浸りになった耕三を「飲酒していて覚えていないと言えば逮捕されない」と小池がそそのかし、耕三は片岡の投手生命を絶つために彼の右手をナイフで斬りつけようとするが失敗し、殺人未遂で逮捕される。留置所の鉄格子の中で泥酔する耕三を、カメラは上の位置から冷徹にとらえ、それはまるで鳥籠の中のカナリアそのものである。壁に叩きつけられたカナリアは耕三の分身である。そしてそれは、我を失うほど痛飲を重ねる耕三の夜ごとの「死」を表しているのではないのか。酒は飲まなかったという渋谷実は、酔っぱらいたちの生態をいささか過剰に茶化しつつも、抗えず酔いの沼へ落ちてしまう人々の根底にある深き絶望とその奈落を彷徨する様をえぐり出している。

紙屋牧子(かみや まきこ)

映画研究者。武蔵野美術大学ほか非常勤講師。著書に『占領下の映画 解放と検閲』(共著、森話社、2009年)、『映画とジェンダー/エスニシティ』(共著、ミネルヴァ書房、2019年)、『渋谷実 巨匠にして異端』(共著、水声社、2020年)など。