CRITIQUE

坊っちゃん

『坊っちゃん』
執筆から百年以上、封切りから半世紀近く経っても色あせない青春映画
上島春彦

夏目漱石の小説「坊っちゃん」と言えば、ことさらに文学好きでなくても誰でも一度は読んだことがあるのではないだろうか。その中には学生時代に読書感想文の課題で読んだ、という人も多少いるかもしれない。日本文学史的に総括すると、いかにも初期漱石というべき「ユーモア感覚」が第1の特徴であり、人気の点では最初期連作長編「吾輩は猫である」と共に圧倒的。こちら『坊っちゃん』は中篇小説で2週間ちょっとで書いたとされる。以後、彼はこうした痛快小説を書くことはなかったから、その意味でも重要作と言える。ところで日本映画の世界というのは(とりわけかつてメジャー撮影所が週替わりで新作を公開していた時代には)こうした公認の名作を映画にするのが常道の一つだった。何と『坊っちゃん』は確認できる限りで5回映画になっている。今のところ、その最後に当たるのが松竹映画1977年版、監督前田陽一の『坊っちゃん』である。脚本は前田と南部英夫による。主演の坊っちゃんに扮するのは中村雅俊。この配役が本作最大のポイントだろう。中村は1974年放映のテレビドラマ『われら青春!』で主演デビューしたラッキーボーイで、その後、同じ時間帯1975年に放映された『俺たちの旅』が大ヒット。映画俳優としての認知は全くなかったものの、当時再注目の若手だったのは間違いない。私のリアルタイムの感覚に従うならば、むしろテレビでよく見る役者の姿を映画館で見られると、何か得したような気がしたのを思い出す。同時上映の『男はつらいよ 寅次郎と殿様』(監督山田洋次)にもゲスト出演している。中村の場合、特に『われら青春!』の主人公がやはり高校教師だったこともあり、個人的に『坊っちゃん』の役柄への思い入れの度合いは強かったものだ。本作のラストシーンで四国を去る主人公を生徒たち全員が快活に見送る場面のシチュエーションはこのドラマの最終回を意識している。つまり、こういう場面は原作にはない。


ここで改めて今回の映画版の物語を大まかにまとめておくと、時代は明治39年、東京の物理学校を卒業直後、四国、松山の中学校(現在の学制で言えば高校に近い)に赴任してきた数学教師近藤大介(中村)が、当地で巻き起こす騒動を描く。明治39年(西暦1906年)というのは原作が発表された年である。感覚的には、原作舞台の時空間が同時代の現実(社会環境)に立脚していたのに対して、その内容が映画版に語られる時いかにも昔に感ぜられる。ほぼ70年さかのぼる出来事。だがその旧弊をフレッシュなキャスティングで刷新するというのがコンセプト。既述のように当時の観客(私がその典型)は、あの中村雅俊先生が昔の格好で現れた、と単純に思い、彼の立ち居振る舞いにストレートに感激することが出来た。もっとも、批評的な観点からすると原作と映画の(内容ではなく)設定の違いに注目する方がはるかに興味深い。例えば主人公キャラクター「坊っちゃん」の名前の件。映画版主人公がどういう理由で「近藤大介」となったかは不明だが、原作に彼の姓名は表れない。意図的に隠されている。国文学の領域ではその意図を探る試みもなされているが映画には無関係なので、文学的な解釈には言及しないでおく。むしろこの件は、語りの構造に起因する一種のジョークだと捉える方が現代批評的。要するに小説の「話者(ナレーター)」が第三者(彼)でなく自分(私)なので、物語を語り始めるに際し名前の件を無視することが容易になった。その方向性を物語上で貫くのを「作者(オーサー)」が面白がっている、と解することが出来る。小説家漱石のデビュー作「吾輩は猫である」の「話者」もまた、最後まで名前を与えられることのない「吾輩」であった。事情は異なるにせよ、作者が主人公の命名(ネーミング)を避けた、という意味では似ている。

坊っちゃん

映画は原作同様、あだ名を巡る物語と言える。登場する教師のキャラクターに対して、キザで嫌味な「赤シャツ」、日陰に生(な)っている野菜になぞらえた、不健康な「うらなり」、無骨で粗野だがいい奴「山嵐」、等、話者が狂騒的にまくしたてる「即興的な名前」の数々はまさに当意即妙。一応存在する本名の方がかりそめに思えるほどだ。この物語が現在に至るまで変わらない共感を読者に送り届けるのは、この愉快なネーミング行為ゆえとも思える。面白さの主たる要素がこれであって、ひょっとすると物語の内容自体は副次的なものかもしれない。本作5本、代々の映画監督はそれぞれの時代の有名俳優を教師陣に起用して、彼らなりのキャラクター群像を楽しんで造形している。本作の前田陽一は松竹ではほぼ喜劇専門監督と見なされていたこともあり、本来必ずしも喜劇俳優というわけではない役者たちを自身の演出手腕でコミカルに変貌させた観がある。特に、舞台俳優の印象が強い米倉斉加年(よねくらまさかね)演ずる赤シャツと、本業は歌手である湯原昌幸扮する野だいこのコンビが抱腹絶倒。腹黒い策略家とその子分という根っからの悪役キャラなのだが、一種、漫画的なカリカチュアが施されることで坊っちゃんと山嵐の熱血漢コンビとの間に上手いコントラストを成している。


そして多分、本作の脚本家コンビが原作脚色に際し、最も巧妙に趣向を凝らしたのが松阪慶子演ずる「マドンナ」の扱いである。許婚(いいなずけ)を振って赤シャツに鞍替えしたと語られる彼女は原作では誰にも(物語中でも読者にも)好感を以て迎えられることのない存在なのだが、本作にあっては明るく坊っちゃんに接し、意見する坊っちゃんに反論さえ出来る「新しい女性」である。原作では坊っちゃんとマドンナは会うことすらないのだが。そして赤シャツの入れ知恵で、許婚などという旧時代的な慣習の愚かしさに気づいてしまった彼女は返す刀で赤シャツも切って捨て、東京に向かい、職業女性になる、と決意を語るのである。私をこのように変えて下さったのはあなたじゃありませんか、と赤シャツにタンカを切る彼女の独立宣言がある意味、本作最高の価値かもしれない。

上島春彦(かみじま はるひこ)

映画批評。1959年生れ。長野県出身。著書に「血の玉座 黒澤明と三船敏郎の映画世界」、「レッドパージ・ハリウッド」、「鈴木清順論 影なき声、声なき影」(芸術選奨・文部科学大臣賞受賞) (以上作品社)など。