CRITIQUE

喜劇 命のお値段

『喜劇 命のお値段』
パロディを起点としつつも、そこにけっしてとどまらない「重喜劇」
廣瀬純

前田陽一は、森崎東や瀬川昌治らとともに60 年代末からの松竹「喜劇」シリーズの中核を担った監督である。娼婦たちが労働運動を「演じる」様子を描いた監督デビュー作『にっぽんぱらだいす』(1964)から、ヤクザたちが株式会社を「演じる」様子を描いた遺作『新・唐獅子株式会社』(1999)に至るまで、前田は、演技性、贋造(フェイク)性あるいは複製(コピー)性に彼の喜劇の源泉を一貫して求め続けた。


本作でも、福田清造(フランキー堺)は医者を、加東一郎(財津一郎)は小学校教員や調理師を、日野信子(岡田茉莉子)は聾唖者を、それぞれ演じる。「演じる」とは、しかし、前田においては、社会的に規定された役柄(「医者」「教師」など)に身体を透明に一致させることではない。登場人物たちの役柄への同化にはつねに過剰あるいは不足が伴い、彼らの身体とそれぞれの役柄との間にはつねに齟齬が生じている。演技において彼らは、最初からあからさまにフェイク、模造物、劣ったコピーとしてある。前田喜劇は、この意味で、まずは「パロディ」(モデルとのズレをコピーから喜劇的剰余価値として引き出すことに存する作劇手法)のそれとして始まる。


松竹喜劇作品と同時代的に向き合った批評家の多くは、瀬川映画を「軽喜劇」、森崎及び前田映画を「重喜劇」と呼び分けていた。瀬川と森崎については措くとして、前田映画が「重喜劇」とされたのは、そのどの作品もが、パロディを起点としつつも、そこにけっしてとどまらないものだったからだ。役柄との齟齬において個々の身体は、それぞれに固有の歴史性を露呈させる。清造の身体には、終戦直後に同じ靴磨き少年として一郎と出会い、手配師に騙されて彼とともに朝鮮半島に送られ、非合法看護員として戦禍を生き抜いた記憶が堆積しており、また、それを通じて、日本の戦後史そのものが刻印されている(医師会の議題のひとつが「保険医総辞退」とされていることからも明らかな通り、本作の物語は1971 年当時の日本を舞台としている)。医者を演じるなかで彼の身体が可視化させるのはそうした記憶であり、歴史なのだ。コピーたちは、確かにモデルとのズレを相対的価値として産み出してもいるが、しかし同時に、その同じズレのうちに彼ら自身の絶対的価値を輝かせる。前田は、パロディの「軽さ」(相対性)のただなかに、歴史を生きてきた身体の「重み」(絶対性)を現出させるのである(長崎の元炭鉱夫たちが東京のデパートから現金を「掘り出す」様子を描いた『女咲かせます』など、森崎作品の一部にも同様の演出が見出せる)。

喜劇 命のお値段

身体にその歴史的「重み」を返すことは、「カユイカユイ病」をめぐっても問題にされている。カユイカユイ病にも、無論、パロディの側面がある。本作が公開されたのは、日本社会がおのれ自身の高度経済成長を一歩引いた視点から知覚し始め、日本各地で発生していた様々な奇病が「公害病」として告発され始める時代である。カユイカユイ病は、1966 年に日本政府によって初めて公害病として認定された神通川流域のイタイイタイ病をパロディ化したものに他ならない。「イタイ」を「カユイ」へ、体内の病を体表の病へと転じることで、パロディの軽さ、コピーの表層性が確保される。表面(外観)において医者である者が表面(皮膚)の病に対峙する。しかし、一郎とともに清造が進める病因の探求は、皮膚という表層にそれ自身の深みを、カユイという感覚の軽さにそれ自身の重みを返すものとなる。カユイカユイ病は川上食品の商品に起因し、その川上食品は、朝鮮戦争時代に同社社長が米軍との闇取引によって稼いだカネで創業された企業だったということが明らかになる。すなわち、カユイカユイ病を発症させた身体は、清造と一郎の身体が生きてきたのと同じ歴史を共有しているということだ。ただし、前田は、清造と一郎については、彼らの身体の歴史性を映像のうちにそれとして可視化させるのに対して、カユイカユイ病患者たちの身体については、映像ではその症状を表面的現象として示すにとどめ、音声(言葉)によってこれに歴史性を回復させる。


前田映画において、身体は、それが生きてきた歴史によって規定されているだけではない。清造や一郎の身体は、そのスラップスティック的躍動のうちにおのれの歴史的規定を肯定するのと同時に、そこから逸脱する未来をつねに静かに夢見てもいる。本作の物語が展開されるのは陸でのことだが、その転機にはつねに水(川、海、池)が介在する。前田は、松竹大船スタジオの立地を作劇に活かすことを知っていた。清造と一郎あるいは信子とが水の広がりを前にして岸辺に二人で並んで座るとき、彼らの身体は、運動(与えられた状況へのアクション/リアクション)を宙づりにして「現在」から一時的に外れ、背後からのショットにおいて「過去」を純粋に取り戻す(「東京シューシャインボーイ」を歌いながら身を揺らす清造と一郎)のと同時に、正面からのショットにおいて「未来」の純粋な開かれを前にすることになる(この点で、前田は、水辺を作品の舞台にし続けたヴィゴ、グレミヨン、エプシュタイン、ルノワールなどの大戦間期の人民戦線派フランス映画を継承する)。登場人物たちは、水の流体性によって与えられる未来への開かれ(未規定性)を身体内に携えて、その都度、陸の運動空間へと戻ってゆくのである。


前田映画の登場人物たちが演技を始めるのは、陸のロジックとしての「利害」に水のロジックとしての「欲望」を従属させてのことだが、演技を続けるなかで彼らはこの従属関係を逆転させることになる。演技には、モデルとのズレにおいてコピーをパロディとして価値付ける力、その同じズレのうちにコピーそれ自身の歴史性を浮上させる力に加えて、コピーを利害のロジックから解放し、モデル/コピー関係の転倒に至るまでモデルへのその同化運動(演技)を暴走させる力もある。身体の歴史性による絶対的な抵抗は演技の破綻を必然的に導くが、その破綻の果てに演技が再び回帰する。二つのショットから構成された本作最後のシーンで清造は、一度脱いだ白衣を再び身に纏っている。医者の銅像に擬態した彼を正面から捉えた第一のショットは、純粋なパロディのそれとしてある(生身の人間が銅像を演じることでズレが強調される)。しかし、彼を背後から捉え直し、尻を掻く彼の手を見せる第二のショットは、もはやパロディのそれでも、パロディを内破させる歴史的身体のそれでもない。本作がこのラスト・ショットで示すのは、真の医者の銅像は、聴診器を持つのとは別の手で尻を掻いていなければならず、背中に回したその手をもしただ腰にあてているだけであれば、そこに銅像化されている人物は医者の模造物でしかないという真理に他ならない。凱旋するフェイクの戴冠。医者のイデア(理念型)をそれとして体現するのは、欲望するコピーであって、利害に従い続けるモデルではないのである。

廣瀬 純(ひろせ じゅん)

批評家。龍谷大学経営学部教授。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」「VERTIGO」元編集委 員。著書に「資本の専制、奴隷の反逆「南欧」先鋭思想家8人に訊く ヨーロッパ情勢徹底分析」「暴力階級とは 何か 情勢下の政治哲学 2011-2015」 「アントニオ・ネグリ 革命の哲学」「絶望論 革命的になることについて」 「蜂起とともに愛がはじまる 思想/政治のための 32 章」「シネキャピタル」「闘争の最小回路 南米の政治空間 に学ぶ変革のレッスン」「美味しい料理の哲学」「シネマの大義」などがある。